2010年12月30日 (木)

『年末の音が聞こえて来ました』


 一万円札でガムを買ったら千円札が九枚と小銭で釣りが来て、店員が『確認お願いします』と言って、指で千円札をはじきながら数えて行くのだけれど一枚目 が野口英世では無く、夏目漱石だったので、僕の意識は『夏目や、夏目や』とそちらにばかり捕われて店員の声もおでんの匂いもどんどん遠くなって行った。


 六本木にある本屋から通りに出たら目の前に都営バスが停まっていて、座席でおにぎりを食べている老婆と眼が合った。その瞬間老婆が恥かしそうに笑ったの が素敵だった。お腹が減って我慢出来なかったのだろう。恥じらいの皮を突破って本能が溢れ出す瞬間、溢れ出す本能を隠そうと恥じらいの蓋を被せるのだけれ ど全然足りないという状態。美しい。僕は老婆を気遣い具材までは見ないことにした。


 後輩の好井が真夜中の稽古中に突然ヒゲを剃り出した。僕達は仕事の前にヒゲを剃るのが常識で、人前に出ることのない真夜中にヒゲを剃り出すというのは大 変珍しいことだから、僕は驚いて『なんで急にヒゲ剃り出したん?』と聞いた。すると、好井は『又吉さん見てたら気になって…』と言った。なに人のヒゲを駄 目な手本にしてくれてんねん。『お月様をもっと近くで見たい』と思い無意識に僕の背中を踏み台にしてしまう純粋な後輩がいたとしたら僕は簡単に許す事がで きる。いつかこのヒゲが僕の命を助けてくれるといった類いの奇跡に期待するしかない。


 中村文則さんの小説『遮光』が文庫本になった。僕が生きる糧にしている作家の二作目の作品だ。僕は中村さんの名前を文芸誌で見つけると必ず買って読むよ うにしているので中村さんの対談やインタビューも沢山読んでいて、だから無意識の内に中村さんの言説を自分の中に取り込んでしまっただけかもしれないが、 (素晴らしい作家は自分の中に漠然とあった説明できないような感情を的確な言葉で捕らえ提示してくれるから凄いと思う)中村文則さんの作品を読んで常々僕 が感じているようなことが、『文庫解説にかえて』に中村文則さん御自身の言葉でも綴られていた。決して明るい小説では無く深刻な内容なのだけれど、そうい う小説が救いになっている僕のような人も沢山いて、中村文則さんは、そんな僕達にとってかけがえのない特別な作家なのだ。辛い時にパーティーに行けば元気 が出る人もいるだろう。だが、パーティーは華やか過ぎて自分が突き放されているような気になり更に辛くなる人もいる。『前向きに行こう』と書かれた本を読 んで、又はそれに近い言葉をかけられて、その言葉に応えることが出来ない自分に悶々として追い詰められた気持ちになり『どこ
にも居場所が無い』と感じる時もある。そういう時には、まず自分と同じ環境や心境の文学や音楽などが頼りで、そこから一筋の光を見出す時もあれば、絶望的 な結末に共感し自分を投影し、自分自身を見つめ直す契機になることもあって他人からすれば何ら変化が無いかもしれないが、自分の中では癒され確実に一段上 がっているということが多々ある。だから絶対に消滅してはいけない世界だと思っている。その中でも中村さんの描く小説は凄い。面白い。


 公園でサッカーをしている少年達がいた。そのような風景に出くわすと僕は時間が許す限り眺めていたいと思う。で、地域のサッカー少年団のものと思しき上 等なジャージを着た少年もいれば、いかにもサッカー未経験者と見えるチノパンにスニーカーという装いの少年もいる。チノパン少年はサッカー少年に『せこい ぞ!』と言っていた。その意味を考えてみた。サッカー少年は圧倒的に上手い。だが、それは当然なのだ。365日をサッカーに費やした少年と『やらな男じゃ ないみたいな誘われ方したし、やってみよか』という少年とではサッカーに捧げた時間が違うのだ。僕もそうだった。一切勉強などせず全ての時間をサッカーに 使った時期があった。『サッカー頑張って偉い』とか言われた事もあったが、難しいことだらけの世界の中で一つのことを追求し続けるという生き方は僕にとっ てはまだ解りやすい方法で、全ての事に対して妥協せずに取り組める人こそ凄いと思う。少なくとも僕には到底そんな事は真似出来ない。だから目の前で行われ ている草サッカーは不公平の極みみたいなもので、サッカー少年は賞讃されチノパン少年は侮蔑される。でもチノパン少年は彼なりに、その
グランドに立たなければならない理由があったのだ。簡単な事なのに相対的に物事を見ずに目の前の現象だけで価値を判断してしまうのは何故だろう。『人には 各々美点があって人間はそこを見るべき』という僕の小学三年生時代の担任の言葉は綺麗事だったのか?目の前のパフォーマンス至上主義ならば、薬物で世界記 録を叩き出した人間はどうなるのだろう?僕は薬物を使用した事実を知らなかったら馬鹿みたいに感動してしまうだろう。その走りに不健康な精神は恐らく投影 されないだろう。大会前に家庭の事情でトレーニングが全く出来なかった選手の都合など知らずに僕は鈍い選手の動きを糾弾するだろう。試合前に子犬を助けた ばかりに足を挫いたランナーの走りから僕はそのランナーの健全な心を感知することなど出来ず、調整に失敗した選手の怠慢な姿勢を揶揄するだろう。極論かも しれない。でも、そんなことは腐る程ある。当事者以外は誰にも何も解らないのだ。でも、それでも色々な可能性は人間ならば想像出来るにもかかわらず、想像 しないのはなぜだろう。あらゆる事をパターン化して型に落とし込む悪い癖がついてしまっているからだ。そうすることで思考は止まらずに
早く答えに辿り着いたと安心し生活を滞りなく送ることができるからだ。多少の利便性は認めるがきめが粗過ぎやしないか。サッカー少年は恰好良い。全力でド リブルすれば良い。全員抜き去ってやれば良い。闘いとはそういう残酷性を孕んだものだ。そんなプレーに観客は興奮するのだ。だけどチノパン少年も恰好悪く はない。

そこにたどりつこうとあせってはいけない。
「そこ」など、どこにもないのだから。
本当にあるのは「ここ」だけ。
今という時にとどまれ。
体験をいつくしめ。
一瞬一瞬の不思議に集中せよ。

それは美しい風景の中を旅するようなもの。
日没ばかり求めていては
夜明けを見逃す。

(出典: psychdlc)

今後の人生設計をどのように描いていますか。(澤穂希・INAC神戸MF)

まったく描いておりません。お先真っ暗です。